HISTORY
日立の現在と過去
THE PRESENT
企業城下町として転換期にある現在、
変わらなければ、生き残れない。
100年以上前から続く、ものづくりの町としての日立が、
いま現在、大きな岐路に立たされています。
大企業の事業構造の変化や人口減少の急速な進展に、どう対応していくのか。
STORY
暗闇のなか、岩を砕き、
切り開いてきた日立の風景
技術一筋。ゼロから築き上げた力を糧に
日本有数の工業都市・日立の原点は、<日立鉱山>。かつて何千もの鉱夫たちが一打ち一打ち岩を砕きながら切り開いてきた坑道の距離、総延長約700kmは、日立から大阪までの距離にあたる。暗闇を味方にしながら地中深く掘り進むその過酷な時間に、鉱夫たちはそれぞれ何を想い、どんな未来を描いたのだろう。そもそも日立での鉱山開発は、戦国期末期に始まったといわれている。その後、江戸時代から<赤沢銅山>として本格的に銅鉱が採掘されるものの、鉱害問題が発生。鉱山開発は思うようにいかないまま、時代は明治へと流れていく。日立の鉱山開発に大きな変革が訪れたのは、1905年(明治38年)。鉄鋼業の道を歩み始めたひとりの実業家、久原房之助の行動によって、日立の風景は変わっていく。久原は<赤沢銅山>を買収し,翌年には<日立鉱山>として、本格的に採掘を開始。すぐに鉱山開発を軌道に乗せた久原は、掘削・精錬機械の電力確保のため、さらなる開発のため、発電所の建設と買収を進めながら、鉱山事業を拡大していった。そんな久原に招かれ、<日立鉱山>に工作課長として入社したのが小平浪平だ。当時、外国製機械と外国人技師への支援にほとんど依存していたなか、小平は自力で開発することに徹底してこだわった。そして久原の出資のもと、後の〈日立製作所〉を創業。将来の新幹線の製造へとつながる国産初の大型電気機関車の成功に導くなど、〈日立製作所〉を技術一筋でゼロから築き上げた。
この小平のものづくり精神に時代が呼応するかのように、昭和に入ると日本の産業は急速に重工業化。日立もまた、鉱工業を中心としたものづくりのまちとして発展していった。その後、第二次世界対戦では空爆と艦砲射撃によって〈日立製作所〉の工場を中心に大きな被害を受けた日立。それでもまちの再建に向かって動き出した〈日立製作所〉は、日本の高度経済成長期とともに躍進する。そしてその傍らでは専門的な技術を強みとした中小の製造業も増加。こうして日立は産業集積都市として独自の文化とコミュニティを育んできた。現在、日立は未来に向けて飛躍を続けている。と同時に課題も生まれているのも事実だ。これまで親企業と下請けとなる中小の製造業が一体となることで発展してきた日立。ところが近年の産業構造の転換や人口減少などによって、その関係にも変化を余儀なくされている。この転換の時期を迎え、中小の製造業は自立的な事業展開に向けて、弱かったヨコの連携を強化しながら取引を多角化。確かな技術を域外へと発信しながら、人材育成にも取り組んでいる。粛々と、今日も確かな技術を糧に、自らの手を動かしている。
INFORMATION
日立市の基本情報
東京圏に近い、茨城県北東部に位置する日立市は、東に太平洋を望み、西に阿武隈山地系の山々が連なる、海と山の恵みを両方満喫できるまち。ユネスコ無形文化遺産である<日立風流物>や、日本のさくら名所100選に選ばれている<かみね公園・平和通り>など観光資源にも恵まれ、鉱業、電気機械産業を中心とした産業と自然が調和した様々な魅力に溢れている。また交通条件もよく、東京から北に約150km、県庁所在地である水戸市からは約40km に位置し、JR常磐線、国道6号、常磐自動車道などのネットワークで結ばれている。
主な観光スポット
- かみね公園
- 日立市かみね動物園
- 奥日立きららの里
- 平和通りの桜(日本さくら名所100選)
- 御岩神社
- 大煙突
- 日立シビックセンター
- 日立市役所新庁舎
- JR常磐線日立駅
- 日鉱記念館
- 日立市郷土資料館
- 吉田正音楽記念館
主な祭り
- 4月上旬
- 日立さくらまつり
- 5月下旬
- 奥日立きららの里 春まつり>
- 7月下旬
- ひたちサンドアートフェスティバル
- 7月下旬〜8月中旬
- 日立あんどんまつり
- 7月下旬
- 日立港まつり
- 8月 第一土曜日
- ひたち河原子海上花火大会
- 9月下旬
- よかっぺまつり
- 10月上旬
- 日立港秋の味覚まつり
- 10月中旬
- ひたち秋祭り〜郷土芸術大祭
- 10月下旬
- 奥日立きららの里〈秋まつり〉
- 11月中旬
- 日立市産業祭
- 1月上旬
- かみね公園正月まつり
- 2月上旬
- 日立サイエンスショー・フェスティバル
TIMELINE
ものづくりのまちとしての歴史
1880
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1880年(明治22年)
宮田村と滑川村が合併し、多賀郡日立村が誕生。
1900
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1905年(明治38年)
久原房之助が〈赤沢銅山〉を買収。
銅山の名称を所在地である日立村にちなんで、
〈日立鉱山〉として創業する。 -
1910年(明治43年)
〈日立鉱山〉工作課長の小平浪平が、〈日立製作所〉の前身となる電気機械修理工場建設。
国産初の5馬力モーターを開発。 -
1912年(大正元年)
〈日立製作所〉が〈日立鉱山〉から独立し、〈久原鉱業日立製作所〉となる。
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1914年(大正3年)
〈日立鉱山〉で産出した銅の製練による煙害が深刻化。煙害防止のため、延べ約3万7千人を動員して、標高325mの山上に大煙突(155.7m)が完成。
-
1915年(大正4年)
大煙突の使用開始により煙害が急速に減少すると、〈日立鉱山〉所長の角弥太郎は、自然環境を回復させるための植林を開始。
1920
-
1920年(大正9年)
〈日立製作所〉が、〈久原鉱業日立製作所〉から分離独立。
-
1924年(大正13年)
多賀郡日立村が多賀郡日立町になる。
-
1932年(昭和7年)
1915年に始めた一連の植栽工事が完了。煙に強い大島桜を中心に、約500万本が植林され、その面積は延べ1200町歩に達する。
-
1939年(昭和14年)
日立町と助川町が合併し、日立市が誕生。
1940
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1945年(昭和20年)
第二次世界大戦によって〈日立製作所〉の工場を中心に、日立市は大きな被害を受ける。終戦後、〈日立製作所〉は電気機器製品の生産を推進。再建を目指す。
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1955年(昭和30年)
日立市に多賀町、日高村、久慈町、中里村、坂本村、東小沢村が編入合併し、新日立市が誕生。(翌年1956年には豊浦町が編入合併)
-
1955 – 1973年(昭和48年)頃
日本が高度経済成長期に突入。日立市もまた、〈日立製作所〉の生産基地として、関連した中小の製造業が急増。まちの産業集積が進む。
1980
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1981年(昭和56年)
〈日立鉱山〉が閉山。創業以来の採掘粗鉱量は、約3,000万t、銅量にして約44万tにのぼる。
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1985年(昭和60年)
〈日立鉱山〉創業80周年を記念し、その歴史を展示した産業資料館〈日鉱記念館〉が〈日立鉱山〉跡地に建てられる。
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1993年(平成5年)
大煙突が老朽化に伴い、全体の3分の1を残して倒壊。その後改修され、地域と鉱山をつなぐシンボルに。現在も〈JX日鉱日石金属(株)日立工場〉の設備として稼働している。
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1998年(平成10年)
日立市の出資のもと、地域産業の自立的発展の基盤強化を目的に、〈日立地区産業支援センター〉が開設。主に中小企業の経営支援、地域における各種連携構築、新規創業拠点として活用される。
2000
-
2004年(平成16年)
旧多賀郡十王町と合併し、新日立市が誕生。
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2005年(平成17年)
日立市が〈環境都市宣言〉。市の花である桜を環境再生のシンボルとし、自然環境と産業の調和した持続可能な社会の創造を目指す。
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2008年(平成20年)
一部は海上にもかかる高架橋、国道6号日立バイパス〈日立シーサイドロード〉が開通。
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2011年(平成23年)
日立駅自由通路・橋上駅舎が完成。デザイン監修は、日立出身の建築家、妹島和世率いる妹島和世建築設計事務所。
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2018年(平成30年)
ダミー日立駅自由通路・橋上駅舎が完成。デザイン監修は、日立出身の建築家、妹島和世率いる妹島和世建築設計事務所。
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2019年(平成31年)
ものづくりと生きてきた県北の中小企業をネットワークでつなぐ、〈ものづくりの日立〉オフィシャルサイト開設。
2020
引用・参考文献
『ウォッチングガイド ようこそ!日立市へ』 (一社)日立市観光物産協会 P 4 「ものづくり百年の歩み」○○年
<日立市HP 日立の観光案内>
http://www.city.hitachi.lg.jp/kankou/003/